2006年01月11日

浅利慶太さん

8d3b9a5c.jpg劇団四季「ライオンキング」が千秋楽。
お疲れ様でした。
この春からは浅利慶太さんの歴史3部作が
名古屋で連続で観る事ができるよ!
ひとりでも多くの人に見て欲しいな。
重たいテーマだけれど
楽しい歌と踊りで、笑いあり涙ありの
すばらしいミュージカル。
五感に直撃なのさ。そして何より
浅利さんの志にこころ打たれるんです。


名古屋:新名古屋ミュージカル劇場

ミュージカル李香蘭
4月21日(金)〜5月20日(土)

ミュージカル異国の丘
5月28日(日)〜6月18日(日)

ミュージカル南十字星
7月上旬開幕予定

待ち遠しいぜぃ!!

<浅利さんのお言葉です>

語り継ぐ日本の歴史

稽古場の一隅から「戦争を素材にした作品をつくっていると、よくホンモノの戦争が起こりますね。」という声が聞こえた。そう言われてみると『ミュージカル李香蘭』の時は湾岸戦争。二十数年前の『エビータ』の時はアルゼンチンでフォークランド紛争。『ミュージカル異国の丘』では米国での同時多発テロ以後の中東。『ミュージカル南十字星』の時は、イラク戦争が続く。

 思えば私の少年時代は、戦争が渦を巻いていた。生まれる二年前の一九三一年には満州事変が起こった。三つの齢の三六年には、二・二六事件。家が永田町だったので、反乱軍の封鎖線の中に入ったのか、父が帰宅しない不安の日を過ごした。家の近くの雪の中に兵隊さんが立っていた。ぼんやりと憶えている。
 次の年には盧溝橋事件で始まった日華事変(当時は支那事変と言った)。永田町小学校の三年生になった四一年には太平洋戦争(同じく大東亜戦争)。四四年に空襲が始まり疎開。翌四五年に敗戦。戦争中も大変だったがそれに続く敗戦国民の生活は、物心両面で辛く、重かった。その後遺症は、長く我が家を苦しめた。

 戦後の四九年には教育制度が変わり、戦争と疎開のため入れなかった慶應に新制高校が出来、入学。その年、一年先輩の俳優日下武史や作曲家林光らのいる演劇部に捉まり、やがて劇団四季を創る。それから半世紀。考えてみると、私が人生でよく知っているものは、「戦争」と「芝居」と言ってしまってもいいかも知れない。それにしても、戦争は苦しみに満ちていたが、芝居者の人生も大変だ。

 「浅利先生はこれらの作品を通じて、戦争反対を訴えていらっしゃるのですか。」と訊ねる若い俳優がいたので困った。私は戦争ならなんでも反対というような、単純な反戦論者ではない。人間の歴史の中には、戦わなければならない戦争もある。外国が我々の国土を軍事占領し、民族を隷属させようとしたらどうだろう。当然、武器を取って立ち上がり、家族を、民族を、祖国を護るために戦う。侵略者を撃退し、二度とそうした事態を招かないようにしなければならない。そのためには、命も捨てる。これは、私自身が「日本人」であるための、最低の覚悟だと思っている。ナチズムやテロリズムのように、無辜の市民を襲う暴力に対しても戦うだろう。

 私は戦争に正しいものと、そうでないものがあると言いたいのでもない。いつも考えることは、例えどんな崇高な目的があったとしても、戦争は民衆の、国民の凄まじい犠牲を伴って戦われるということである。戦争は長く続く悲劇を生む。だから戦争を決断する立場となった人は、このことを深く心に刻まなければならない。政治家だけではない。それを支える人、あるいは世論に影響をもたらす人までふくめて、責任を問われる。
 指導的立場にある者は、如何なる困難ものりこえ、政治的、外交的手段を尽くして、戦争を回避するよう努力しなければならない。戦争も、勿論政治の一手段である。しかし、一つの民族、国民、国家にとって、「戦争」は、実に最後の、最後の選択でなければならない。


 私の少年時代に行われた昭和の大戦争を振り返った時、当時の指導者たちに、果たしてそれだけの認識、覚悟があっただろうかという疑問が湧いてくる。「あの戦争を総括するには、まだ時代が早い」という意見に私は耳を傾ける。たしかにそこには、大きな錯誤や侵略行動、蛮行と共に、アジアを、植民地支配する西欧勢力から解放したという側面があったことも否定出来ない。だが、何度も言うようだがあの戦争の開戦、遂行に関った人々は、結果として日本国民にもたらされる可能性のある「悲惨」について考えたのだろうか。そして満州・日華両事変は? 続く対米戦争の開始は、民族、国家の存続にとって「最後の手段」だったのか。戦争回避の方策は絶対に無かったのか。『ミュージカル異国の丘』の台本を書いている時、私の心をよぎり、重くのしかかってきたのはこの疑問である。もし私が十年早く生まれていたら、間違いなく、この戦争の第一線の兵士になっていた。私は兵士の立場で、兵士の心を持ちつつこれらの作品を創った。

 今の若者たちは「一銭五厘」という言葉の意味するものを知らない。「一銭五厘」とは国民を一人の兵士として徴集する国家の命令書、「召集令状」の郵便料金のことを言う。明治以来、日本の国家目標は「富国強兵」にあり、そのために「国民皆兵」の制度がとられ、二十歳以上の男子は、全て徴兵検査を義務付けられた。そして合格者は平時でも一定期間の軍務を体験し、戦時には戦闘部隊を構成する。召集令状は赤い紙が使われた。戦後の若者が聞いても理解出来ない戦時中の青年たちの自嘲の言葉、「俺たちは赤紙一枚で集められた」「一銭五厘の使い捨てよ」の意味はここから来る。一人の兵の力としては、当時世界最強といわれた日本兵たち数百万は、こうして集められた。私はその一兵の立場からあの時代を見たい。

 「一銭五厘」といえども、父母によって育まれ、兄弟・姉妹に囲まれ、妻や子らを愛し、信ずべき友を持つ一人の市民なのである。人々は血涙とともに故郷を離れ、戦線に向かった。そして結果、百万を超える屍の山を築いた人たちもいた。戦時捕虜の扱いに関する国際法を守った旧敵国により、故国に復員出来た人たちもいた。無法極まりない拉致と強制労働を強いた中立国のために、極寒の地で懊悩し、死んでいった人たちもいた。

 兵が自嘲するのはいい。だが戦争指導者の頭の中に、もし一兵は「一銭五厘」にすぎないという発想があったとしたら、それは万死に値する。台本を書きながら、満州における軍事行動の開始から太平洋戦争の終結に到るまで、その発想、情報の処理、戦略、戦術、軍事作戦の立案、遂行、そして敗戦までの経緯を辿ってみた。すると、この時期国政をリードした人たちと、時代を支配した高級軍事官僚たちに、日本の置かれた状況に対する判断の甘さを見た。甘さと言うより浅慮、無知と言ってしまったほうがいいかもしれない。

 例をあげればきりがないが、しかるべき時期に何故蒋介石政権と和平しなかったのか。「中国戦線の泥沼」に嵌らぬチャンスは何回かあったはずだ。国力の差から見ても「日米開戦」は避けなければならなかった。戦いは当然のことながら勝つか負けるかだ。「敗戦」の可能性は検討されなかったのか。古い話をするようだが、武田信玄や織田信長だったら、開戦の選択をしただろうか。それほどの偉材を持ち出さなくても、明治の指導者だったらどうだったろう。
 この時期の日本には、こうした場合重要な役割を果たすべき、「政治」が不在だった。リーダー達は「視界狭窄」に陥り、それまでの「行きがかり」を捨てきれず、結果多くの国民を破滅と死の淵に突き落とした。世論を戦争にかき立てたジャーナリズムの責任も極めて重大である。この時期、悲劇に向かう事態の推移を、体を張って止めようとした人はいなかったのか。少くとも斎藤隆夫以外、記録には現れていない。

 戦時中の指導者の中には、前述した非人間的な思い上がりがみえる。そしてこの民を軽んじる「官僚主義」と、これに不可分な「事なかれ主義」は、過去も、現在も、日本人の社会を蝕(むしば)む病いではないかと思い至った時、鳥肌が立った。
 いつか日本は、この戦争の「開戦」と「敗戦」の責任を、情緒論には流されず、自らの手でしっかりと裁き、歴史に刻印しなければならない。


 三作を創るに当って念頭に置いたのは、終結から六十年を経た今、戦争の深い傷が、日本の社会から忘れ去られようとしていることである。特に戦後生まれの若い年代には、最も重要な「日本の歴史」のこの部分を知らない人が多い。戦争を、左側は「侵略」として東京裁判史観に基づき、全てを悪と片付ける。右側は「止むに止まれぬ歴史の流れ」と発想する。しかし問題は、愚かさと狂気に捉えられたその「戦争の実相」である。多くの人は「戦争」を遠い過去のものと考えている。本当にそうなのか。

 あの悲劇を語り継ぐ責任が我々にはあると思う。戦争で死んでいった圧倒的な数の兵たち、戦後無辜の罪に問われ死を迎えざるを得なかった軍人たち、一発の原子爆弾、一夜の無差別空襲で命を奪われた数えきれぬ市民たちは、みな我々の兄姉、父母の世代である。今日我々を包みこむ「平和」は、あの人たちの悲しみの果てに齎(もたら)された。


 哀悼と挽歌は、我々の手で奏でなければならない。


追記一
 一銭五厘とは一八九九年から一九三七年三月までの郵便はがき料金で、この後、一九四四年三月まで二銭であった。(終戦時は五銭)。

 ただし、召集令状そのものは市町村の役場から直接に届けられた。該当者が徴兵検査の住所(本籍)に不在の場合、家族は、はがきや電報などで本人に通知する義務があった。したがって兵士のことを「一銭五厘」と云ったのは「はがき一枚」という意味の俗称であるが、実際に下士官や古参兵から「お前らは一銭五厘で使い捨てできるのだ」と言われたという証言はたくさんある。
 なお「赤紙」も、正確には薄紅色で、戦時の臨時召集や防空召集などの令状に使われ、教育召集や演習召集は白だったという。

 追記二
 徴兵適齢は二十歳だったが、一九四三年十二月に十九歳に引き下げられたため、まだ十代の兵士が出征することになった。


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コメント一覧

1. Posted by satomi   2006年01月12日 00:19
これは、戦争を知らない私たち世代がぜひ見ておく
べき作品かも知れませんね。
近隣諸国に比べ、日本の若い世代(われわれも含む)
は、どうも自国の現代史というものを知らなさすぎると
思うのです。私自身、子どもに語れるものが何もない。
(まあ自分が無学なだけですが・・・)
浅利さんがミュージカルにこめた思いを、味わいたく
なりました。
こういうものを紹介してもらうのも、いいですね。
「南十字星」が一番心ひかれました。見たい!
2. Posted by ワインセラピスト   2006年01月12日 00:39
>satomi さんもですか!
僕も「南十字星」はまだ拝見してないんで
すごくたのしみなんです。
バロンダンス、レゴンダンスなどの本格的なものまで
やっちゃう劇団四季って本当にすごいです。
「異国の丘」を見るまで恥ずかしながら
「シベリア抑留兵」の史実さえ知らなかったのです。
「南十字星」ではどんな歴史をどんな切り口でミュージカルに
仕立て上げてくれるんでしょうね。
ボーイミーツガールの恋愛ドラマと歴史を絡める浅利さんのスタイルは
2度3度観たくなってしまうからね。
「異国の丘」なんてサントラ聴いて、車の中で泣いちゃうくらい。あはは。
3. Posted by ハナ&みどり   2006年01月15日 21:31
最近とみに「成功の本当のモチベーション」は人に言えないようなことだったりして・・・と思います。恋愛はその一番の要素ですね、きっと。異国またみんなでいく?
4. Posted by ワインセラピスト   2006年01月15日 22:10
ミュージカルに対して食わず嫌いだった私に
みどりちゃんが「異国の丘」を教えてくれなきゃ
浅利慶太さんの「志」を知る由もなかったと思うと
みどりちゃんには感謝の気持ちでいっぱいです。
意味深なコメントありがとうございます。 (笑)

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